夏時間の庭

 新聞の評論を読んだ時、我が家の状況に非常によく似ている話であり、評判も悪くないので、必見リストに入れた。単館上映であり、満席であったら次の予定までの3時間をどう潰そうか心配しながら、映画館に急いだ。映画館に入場できるかどうかを心配したのは、20年ぶりくらいのことだろうか。
 私の家内はイギリス人で、姑が死んだ時、兄や弟ではなく、家内にイギリスの田舎の家を残してくれた。勿論、この映画のようにコローの絵まで付いた家ではないが、家内の家族の夏の思い出が染み付いた素晴らしい田舎家である。何回かの相続で、三分の二は人手に渡ってしまったが、村中が茅葺屋根といった素晴らしい環境で、「子供が独立したのだから、イギリスの家に帰りたい。貴方も仕事中毒で問題がないし、何かある時だけ日本居ればいいでしょう」と言う女房に反対は出来なかった。そんなことで、家内が生きている間は、あのイギリスの田舎の家に我々の子供や親戚、知人、そして私も3年に1度位は行くことができる。
 しかし、女房が死んだ時には、どうなるのだろうか。奇しくも映画と同じで、子供は長男、次男、娘の3人で、それぞれ日本、米国、英国に住んでいる。ロンドンに住む娘は、亭主がイスラエル人であるし、映画の長男同様に、相続税などを考えると単独であの田舎屋を維持できるとは思われない。この映画と同じようなことが、同じような舞台で起こりそうである。
 これほど、自分の身近な問題がテーマの映画であったが、意外に胸に迫るものがなかった。韓国、中国など映画新興国の騒がしくケバケバしいとも言える映画が多い中、久しぶりに上品に感情をコントロールして表現をするフランス映画の良さを感じたことは間違いない。しかし、何かがしっくりこなかった。フランス・オルセー美術館20周年企画の一環で製作されたことから、コローの絵から始まる美術品に分不相応の注目が当てられ、世代から世代への生活の引継ぎと思い出のある場所からの別離という、より普遍的で重要なポイントがぼかされてしまったことにあると思う。映画の状況に近い事情の私ですら、映画を観ている内に気付き始めたのは、世代から世代への生活や思い出の引継ぎは、山形でも京都でも行われている極めて普遍的な問題で、美術品や美しい田舎の家といった舞台背景の中に、普遍的な人生の哀愁がかなり埋もれさせられてしまったことが、本作を「さすがフランスの傑作」と呼びきれない原因になっているように思われる。佳作であるだけに、非常に残念である。