謹賀新年

 また、大したこともしてないのに、年賀状の準備ができないまま、新年を迎えてしまいました。
年賀状をくださった方々には、申し訳ありませんでした。そのうち、何らかの形で御礼申し上げたいと思っております。

 不器用な単細胞なので、やらなければならないことや気になることがあると、ブルグさえ書けなくなってしまいます。
このところ、このブルグに休みの日が増えてしまったので、何人かの人から「病気でもしているのか?」と言われ、申し訳なく思いました。
 体調が特に悪いことはありませんが、3月が終わる頃までは、いくつか集中したいことがありますので、ブルグの頻度が落ちことになると思いますが、新年も引き続きよろしくお願い申し上げます。

西部・佐高「学問のすすめ」

 先日、仙台の古本屋で佐高信「タレント文化人100人斬り」を買い、帰りの新幹線+1時間で一気に読ませてもらった。この著者の代表作が何なのかは知らないが、辛口評論家と言われて、それなりに知られた存在ではある。ビートたけしや西部遵のように複数回斬られている人もいるが、次々に100人が口汚く斬られており、さすが辛口評論家である。私も結構辛口なので、同感できる批評も多かったが、これだけ他人の批判を並びたてられると、「この著者はいったい何様なんだろうか」とか「この著者はどのような人物を良しとしているのだろうか」という疑問が湧いてきてしまう。
 この佐高氏と同氏がこっ酷く斬っている西部氏が、対談番組『西部邁佐高信の学問のすゝめⅢ』(朝日ニュースター)で映画「マルコムX」を題材に対談するというので、録画しておいて本日観た。驚くことに、あの佐高氏が追従笑いを浮かべながら、ほぼ一方的な聞き役に回っていた。しかも、西部氏のコメントはまったく支離滅裂で、両氏が「マルコムX]どころかアメリカについて驚くほど理解が低いことを知って、本当にびっくりさせられた。西部氏はカリフォルニアのバークレイ大学に1年強留学し、アメリカの酷さを理解したので、金輪際アメリカには行きたくないそうである。先ず言いたいことは、私も同じ大学に留学したが、それはカリフォルニア大学バークレイ校であり、バークレイ大学など存在しない。(因みに、UCLAはカリフォルニア大学LA校の略称である)UCバークレイは世界の大学ランキングでトップ5以内には間違いなくランクされる州立の名門校で、西部氏ごときに揶揄される理由はまったく見当たらない。西部氏は、自動車を運転されないようであるが、自動車を運転できない人間にとってはアメリカは地獄であり、西部氏がアメリカ嫌いになるのも当然である。運転免許が無ければ、アメリカの社会を四分の一程度しか理解できない。しかも、1年強の期間ほとんど安物ワインを飲んだくれていたようで、どの程度の英語力があるのか知らないが、とてもアメリカを語るだけのレベルのアメリカ理解を持っているとは思われない。
 日本でしか通用しない暴論・暴言を71才の老人が酔っ払いのようにズルズル話す番組を放送すべきだとは思わないし、未だ唯一の強国であるアメリカをほとんど理解してないで、オピニオン・リーダー面をして欲しくない。二人とも終わった人だという声もあるが、この二人のアメリカ理解には心底愕然とさせられた。斬られるべきは彼らである。
 

宮城県よ

県立宮城大学で、静かな生活と教える喜びを与えてもらいました。
この秋も、非常勤で教えに行ってきました。
宮城大学の長い階段ホールは、「坂の上の雲」を意識していたはずです。
宮城よ

http://www.youtube.com/watch?v=MVKWtxXtZ3E&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=qrlFtS0GZlA&feature=related

立川談志

 立川談志が亡くなった。小学生の頃は、ラジオで落語を結構聞いていたが、最近はたまに「笑点」を見るくらいである。私の話し方や雰囲気が談志に似ているという人がたまに居ることから、談志が出演するテレビなどを時々見たこともあり、今日もNHKの談志ドキュメンタリーを見た。「笑点」は談志がプロデュースした番組であることは知らなかったし、天才とまで呼ぶ人がいることに改めて気付かされた。確かに、単なる噺家の粋は出ており、たくさんの雑学と小気良い毒舌には魅力があった。
 名人芸と呼ばれる「芝浜」を聞きたいと思い、もしやと思いつつYOU TUBEを検索したら、簡単に談志の「芝浜」を聞くことができた。無論タダである。オソロシイ時代になったものだ。疲れていたのか、「まくら」が支離滅裂に長く、発音の切れも悪く、とても名人の芸には思えなかった。特に、女房が大家さんに助言されて拾ったカネを隠してしまうくだりは、女房が自分で気付いて隠してしまう話にした方が人情話としては味があるように思われた。談志がいろいろと能書きをいうのであれば、尚更のことである。
 YOU TUBEが凄いと思ったのは、古今亭志ん生の「芝浜」もアップロードされていることであった。時代からして動画ではないが、久しぶりに名人志ん生の「芝浜」を聞いてみると、談志の何倍も味わい深いように思われた。無駄なしゃべくりも無く、発音も明解で味わい深く、談志よりもテンポが速いので近代的ですらあった。特に、志ん生ヴァージョンでは、大家の存在も助言も無く、すべて恋女房の配慮であったことから、話の筋としてもはるかによかった。
 談志自身が言うように、落語家の命は高座での話であるとするなら、少なくも噺家としての談志は志ん生に遠く及ばずに世を去ったように思われる。私に似たところがあると人が言う7才年上の勉強家の噺家であっただけに、妙に寂しいものを感じる。
 

国際感覚のリタラシー

 前回は「金融リタラシー」を述べたが、最近の事例により「国際感覚のリタラシー」を考えてみたい。

 先ず、オリンパスの事件である。エンロンワールドコム、リーマン等々、世界にはオリンパス以上に酷い強欲資本主義や企業統治の前例がたくさんあり、オリンパスもその一例に過ぎず、日本人総懺悔といった問題ではない。本件でビックリしたのは、バブル崩壊の後遺症と死語になったと思っていた「飛ばし」が現存する問題として、日本を代表する企業で表面化したことである。しかし、それ以上に驚いたことは、粉飾問題を持ちながら何故価値観も確認しないで、外国人を社長に選出したかという点である。多くの日本人や中国人は生まれた時から無宗教で、自分の打算で行動することが多い。これに対して、普段は教会の塀に立小便をするような二流のイギリス人であっても、天の目を意識して、ある線以上の妥協は絶対にしないことが多い。子飼の日本人と子飼のイギリス人の違いを認識できないような「国際感覚のリタラシー」の欠けた二流の日本人がオリンパスの前任経営者であったわけである。こんな間抜けな日本人が経営者に成り上がってしまうから、ソニーや日産の経営が二流ガイジンの手に渡ってしまった。オリンパスにはそうなって欲しくない。
 次がTPP問題である。交渉の場に参加し、協定の内容が明確に固まってから、批准するか否かを議論するのが当然のプロセスで、協定の内容が未確定の段階で、動脈硬化を起こし、オラが村のことしか頭に無いような反対論を仲間内だけで展開するのは甚だしく「国際感覚のリタラシー」に欠けた行動である。アメリカは京都議定書すら批准してないし、国連を実質無視するのはアメリカに限らず、最近は中国、ロシアがそれ以上に甚だしくやっている。それが国際政治というもので、小さなコップの中で言葉の揚げ足取りをやっていても意味が無い。世界の孤児になるだけである。
 世界に輸出して豊かになった経済大国日本が、未だに一人前の「国際感覚のリタラシー」を持ててないのは不勉強な国内派が多数派であることが原因であろう。苦労した技術屋や国際派が稼いだ富の分不相応な分け前を貪っている国内派にはそれが理解できてない。

金融危機と金融リタラシー

 「日本の金融リタラシー(金融常識)を向上しなくてはならない」と言われて久しい。今次の金融危機の議論を聞いていても、聞こえてこない当たり前の金融常識を列挙してみたい。

円高は世界における日本人の地位を上昇させている。大半の日本人は円建てで純資産を持っている。つまり、世界の個人別資産ランキングをドルのような共通尺度で順位付けすれば、何もしてないでも円高により日本人の順位は上がっているわけである。本ブルグ「イギリスでの夏休み」についてで書いたが、ポンドのような外国通貨で消費してみれば、円高の有難さが良くわかる。

円高により、ソニーパナソニックのような代表的日本企業が無策な大赤字の決算になっているのは驚きである。将来のキャシュ・フローがネットで外貨収入の方が多いことは、外貨リスクを取っていることを意味する。仮にそれが年間数百億円規模で、経営を左右するものであれば、偉そうな顔をした経営者たちは何故外貨のアウト・フローを作りリスクを管理しなかったのであろうか? 最も簡単な方法は外貨建ての負債を増加させる方法で、必要に応じて高くなった円で外貨を購入して外貨建て負債を返済すれば、円建て会計上は債務返済利益が計上され、円高の負担を相殺することが出来る。通貨デリバティブ取引は、このような通貨リスクを調整するために開発された商品で、「わが社はデリバティブのような投機的取引は一切やっておりません」という発言は、無能な経営者であることの証明であり、「通貨デリバティブ取引で銀行が中小企業をまた食い物にした」との一方的な報道はマスコミの金融リタラシーが依然低レベルであることの証である。
 最近は、金融専門誌ですらデリバティブや金融技術に触れることが激減した。四則演算の簿記会計に代わるはずの金融技術の発想が経営にとり極めて重要であるだけに将来が心配である。金融専門誌の編集部ですら、理解した上で記事にしないのではなく、理解のレベルが低下しているし、読む人が減少しているので力を入れていない。金融技術が基礎を与えたリスク管理技術を空洞化することは、将来、再び我が国が遅れを取ることを意味している。

③日本は外貨準備に占める「金」の保有比率が3%程度で、先進国では極端に低率である。このところ金価格が史上最高値を更新中であるから、仮に他の先進国並みに外貨準備の60%程度をドルではなく金にしておけば、日本の国富が維持され、経済運営が楽になっていたはずである。政治家や日銀・財務省の関係者たちは口をつぐみ、この歴史的な過ちには一切口を閉ざしている。国策として機会損失を負担してまで米国債を買い続けるのであれば、その理由をハッキリさせ、米国との交渉にもっと利用すべきである。新興成金の中国ですら、既に金の準備率を増加させ、ドル債やユーロ債の購入を交渉の武器に使い始めている。

④民間企業も政府も新しいことにチャレンジせず、知らないうちにリスクを積上げ、膨大な機会損失を積上げてきた。保険や銀行に株式を売らせ続けるから、株価は低迷を続ける。リスクを嫌う政策を一貫させるのであれば、FX取引のような博打そのもののような取引に何故無知な主婦層まで引きずりこむのであろうか?プロの世界では、通貨取引のリスク管理はもっとも難しいとされているが、何故パチンコのような手軽さで、レベレッジを利かせたFX取引にミセス・ワタナベを巻き込むのであろうか?
 プロにはリスク取引を禁じて、主婦層に博打を薦める状況になっていることを、政治家や官僚は理解出来てないのであろうか?

⑤先日までECB総裁であったトルシエ氏と20人ほどの会合で2度議論したことがある。大した人物ではないとの印象を持った。ヨーロッパ大陸諸国のリーダー達の金融リタラシーも日本同様あまり高くない。ユーロで通貨統合すれば、個別国の独自の経済・金融政策が困難に成ることはヨーロ誕生の最初から解っていたことで、今更ギリシャやイタリアで騒いで欲しくない。老獪なイギリスが通貨を統合してないことを見れば、ヨーロッパ大陸諸国のレベルの低さが露呈している。リーダー面してきたドイツそしてフランスの責任は重い。ギリシャやイタリアのように大した産業も無く、GNPの30%程度がアンダーテイブル・マネー社会の財政再建は簡単ではない。
http://diamond.jp/articles/-/15247

 まだまだあるが、要すれば、日本は文科系が仕切っている政治、行政、金融、マスコミなどのレベルが極端に劣等である。それに気付いた連中が専門職大学院を作っては見たが、何が不足しているかすら理解してない連中が幅を利かせている。円高が続くうちに外貨を購入し、日本を離れる準備をした方が利口なのかもしれない。

部下と学生

 冬学期になり宮城大学まで週1回日帰りで通っている。ドアー・ツゥー・ドアーで3時間弱の通勤時間であるが、新幹線とバスの中で本が読めるので苦痛は感じない。仙台郊外の山の麓にあるので、緑に囲まれ、着くとホッとする。人にぶつからないように神経を使って歩き、都庁前と中央公園のホームレスの方々に人生の厳しさを感じさせられる新宿への通勤とは大変な違いである。更に嬉しいことに、帰りがけに仙台の知人と晩飯をごいっしょ出来ることである。先週もゼミの卒業生達と「はやて」の最終の時間まで話をすることが出来た。
 銀行から大学に転職して7年になったが、「厳しい上司」だった割には「優しい先生」になったつもりである。上司と部下は協力して結果を出すことが求められているのであるから、「厳しい上司」で当然であり、学生は授業料を払うお客さんとも言うべき存在であるから、「優しい先生」になって当然であろう。部下とヘラヘラとバカ話ばかりしている上司は失格であることを忘れ、軟弱な部下の甘えを認め、私に「厳しい上司」というレッテルを貼り付ける愚を犯した組織は厳しい状況変化を生き延びることが出来なかった。ダメな部下には「厳しい上司」ではあっても、真面目な部下のことはイロイロ考えてやったつもりである。例えば、留学などの機会を作ってやった部下からは、東大、早稲田、慶應、明治、立命館、青学などの国内大学のみならず、ロンドン大学フロリダ大学で教授になったものも出ている。このような優秀な部下達を正当に評価し十分に活用出来なかったことも、あの銀行が凋落してしまった原因のひとつである。専門知識のない文科系の無能なジェネラリストには、MBAですら使いこなすことは出来なかった。振り返ると、返す返すも残念である。
 日本は教育でその近代化に成功したと言う外国人は多くいるが、その日本の教育の状況変化への対応の遅れは大変に深刻である。「厳しさ」が本当の「優しさ」であり、強くなければ優しくなれないことを理解すべきである。