「重力ピエロ」と「チェイサー」

 「重力ピエロ」の原作者については、「アヒルと鴨のコインロッカー」の原作者であり、若者に人気の作家であり、私の好きな仙台を舞台に選ぶことが多いといった断片的な知識しかない。したがって、「重力ピエロ」という奇怪な題名の映画が何を題材にしているか皆目見当がつかなかった。「アヒルと鴨」という映画もあまり評価できなかった。
 しかし、原作が若者のベストセラーで、映画の評判も高く、仙台が舞台ということで、どんなものか観に行くことにした。若者ベストセラー本を読むのに2日を費やす気にはなれないが、2時間で楽しみながら概要を掴めることは、映画の優れた点であり、好きな点である。

 これは素晴らしい映画である。映画のストーリーが素晴らしい。原作と映画は別物であり、原作がどの程度素晴らしいかを検証するつもりはないが、ストーリーが素晴らしければ、素晴らしい映画を制作することが可能であることの見本と言っても良いのではないか。
 子供3人を育てた65歳の父親として、この映画の父親は神のなり代わりとしか思われない。今でも子供の有り様にイライラする凡夫には、全てを受け入れることが出来るこの父親は、神である。
 このような重い伏線の上に、ミステリーとしての面白さも折り込んでいる。三島由紀夫のような文壇の主流派が、狡賢く力量を過小に印象づけた巨人松本清張と同様の素晴らしい話の展開力であり、映画の制作レベルも「アヒルと鴨」に比べると遥かに優れていると思う。
 このような邦画が作り続けられていれば、世界が再び日本の映画を高く評価する時代が来るように思われる。

「チェイサー」は、ある韓国の才媛に「近頃の韓国映画はあまり面白いのがないように思うが、どうなんだろうか」といった話をしていた時に、出てきた名前である。評判も良いので早速観に行った。
これは韓国映画の弱点が出ている失敗作だと思う。李鳳宇さんが「韓国映画の特色のひとつは身体性である」と話してくれた。確かに、「シュリ」から「オアシス」に到るまで、日本映画には観られない身体アクションがあり、この二作などは韓国映画の素晴らしさを国際的に認知させた傑作であると思う。しかし、「過ぎたるは及ばざるが如し」ではないが、「チェイサー」はその過剰なアクションが話をぶち壊してしまっており、途中からこれは韓国警察を愚弄するためのドタバタ喜劇ではないかとすら思われてきてしまった。ある時期からの韓国映画は、内容やストーリーに関係なく、着飾ったプロレスラーの演じるプロレスを見せ続けているように思われる。そのことに気付かず、人間を描くことを忘れてしまうと、韓国映画の将来は明るいようには思われない。

「シュリ」以降、韓国映画に押され続けたように思われた日本映画であるが、「重力ピエロ」のように、一定水準以上の教養を持った世界の人々が楽しんでくれるレベルの作品が散見されるようになったのは、嬉しいことである。ハリウッドのような、暴力と破壊の車夫馬蹄の類が喜ぶ映画を作る傾向に盲従することは、世界に通用する独自性ある文化産業の目指す方向ではないし、「クール・ジャパン」と賞賛してもらえる所以でもない。