オリンピック

 近況報告でブログを書いているが、他のことに追われだすと、あまり器用でないだけに昨今のように日記ではなく月記になってしまう。先日、前に務めていた大学のゼミ生が集まってくれて、楽しい一時を過ごしたが、多くの参加者がこのブログを読んでいてくれたのが嬉しく、もっと頻繁に読むに値することを書かなければと反省している。
 冬季オリンピックを楽しんだ。与えられた自分の才能を限界まで引き伸ばす努力をしたアスリートが、時の運に左右されながらの結果を受け止めている姿には感動させられてしまう。年とともに涙もろくなっており、何度も涙を流してしまった。人生はフェアーではなく、私が生きてきたビジネスや大学の生活では、アンフェアーなことが極めて多い。オリンピック競技の結果は、人生より遥かにフェアーに才能や努力が反映される。若い時分は、アンフェアーな結果が出ることに反発し怒りを感じたものであるが、最近やや心境が変化してきた。
 この間、名家出身で生まれた時から水準以上の生活が保障されている人生の先輩が次のように言われた。「歳をとってから、囲碁を始めて見たが、やめたよ。実力通りに結果が出ることは息苦しくて楽しめない。やっぱりオレには、ゴルフやマージャンのように、運不運を言い訳に出来るものの方が楽しい」 保障された余裕の人生であるから、まっすぐな人柄の先輩で、この言い得て妙な感想をこの人から聞かされると素直に納得できる。与えられた自分の才能を限界まで引き伸ばす努力をしたアスリート達が、厳しい結果を競い合う姿には感動するが、同時に朝のラッシュの椅子取りゲームのようなスポーツに人生を賭けて何処に人生の意味を見出しているのであろうかとも思ってしまうこともある。
 豊かになった日本人の中に芽生えた余裕の人生感が金メダル零の結果であれば、それはそれで良しと思える。メダルは、天賦の才に恵まれ、上方志向を必要とする車夫馬蹄が取れば良いではないか。そうでも思わない限り日本民族としての誇りが持てないし、おそらく我々の天賦の才は車夫馬蹄であることではないように思われてくる。オリンピックは自分を考える機会にもなった。