イギリスの夏(3)

 「日本語は日本人の魂とかの議論は学校以外で生活したことのない学者先生にまかせて、百万人ぐらいは日本人としても十分教養がありしかも美しい発音で、内容のある文法的に正しい英語を話せ、理解できるような人を養成しなければ日本の将来はない」
 これは寺澤芳男さんが8月7日の日経「あすへの話題」に書かれていた。前段は27日の私のブログに「ローカル語である日本語の切れ端をひけらかし」と書いたことと同じ気持ちである。「日本語は難しい」とか「日本語はもっとも美しい言葉である」という人がいたら、先ずその人物がいくつの外国語をどのレベルで理解しているかを確認すべきである。語学の才能に恵まれず、結局、英語しかものにならなかった私ではあるが、フランス語、ドイツ語、中国語、アラビア語も勉強した時期がある。ご存知のようにフランス語には男単語、女単語の区別があり、動詞の変化も日本語よりはるかに多く、微妙な変化と表現をする。アラビヤ語はこの変化が更に複雑で文法も難しい。中国語は三千の漢字を知らないと読み書きできない。語学の才がある愚妻は、母国語の英語の他に仏語、ラテン語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、日本語、ヒブライ語を理解できるが、「日本語は難しい」とか「日本語はもっとも美しい言葉である」と言うのを聞いたことがない。外国に出れば、デファクトの国際語である英語が出来ることで大きな精神的安定を得ることが出来る。英語が出来ないのは、まともな教育を受けてない人々と考えることが許されるからである。
 日本からイギリスに連れていった小学4年と小学1年の孫は、英語で苦労していた。びっくりしたことに、英国への入管手続きで、「この子供達の親から同行する同意書をもらってきているか?英語がしゃべれない子供を親以外が同行する場合は親の同意書が必要である」と入国審査官から詰問された。孫達に「お前らこのオバサンの英語の質問に英語で答えなさい」と言ったが、公立小学校の普通の生徒である孫達には十分な回答能力は備わっていなかった。私と「姓」が同じであることから、お目こぼしで入国させてもらえたが、ご存知のように、子供の国際的売買問題があり、国際結婚し離婚した日本人が子供を日本に封じ込める問題も知られているので、他人事の問題ではないようだ。
 教育立国の日本が「ゆとり教育」などと馬鹿な事を始めず、必要に応じて、英語の幼児教育や特殊な才能のある子供への英才教育に、何故積極的に取り組まないのであろうか?一部の教育関係者が気付いて作られた「専門職大学院」に勤務する者として、この新しい教育制度も、わが国の多数派が多くの分野の専門性の存在すら認識できない教育しか受けていないから、一向に根付いてこない。受験勉強で覚えた英語や知識は決して無駄なものではない。インド、韓国、中国などの人材が厳しい教育競争で育ってきているのを知っているだけに、国内しか知らない半可通が国を左右している状況を強く憂慮する。
 寺澤さんは最後に「国際社会で(英語力不足で)苦しめられた私の悲痛な声を聞いて欲しい」と書いている。蛇足を言えば、日本語で伝えたいものや内容を持たない人間が、英語であれば伝えたいことが急に生まれてくるはずがない。英語が出来ないのか、伝えたいものを持っていないかを先ず考えるべきであろう。日本の孫達は不足する英語力を伝えたい気持ちでカバーしていたし、英語の下手な技術者が国際的に活躍している例は少なくない。外国で生活したことのない視野の狭い政治家や文科省の役人に国家戦略を誤って欲しくない。