「わが青春に悔いなし」

昨日、大学から帰ってテレビをつけると、黒澤明監督の「わが青春に悔いなし」が始まるところであった。あまり気にしたことがない映画であったが、奇遇であり観ることにした。
出だしから引き込まれてしまった。正義感が強く実行力のある「野毛」と、母親の言葉を無視できず無難に大勢に順応する道を選ぶ「糸川」の対比は、これほどドラマティックではなかったが、わが青春の悩みを甘酸っぱく思い出させてくれた。「経済学は資本主義とともに滅び去る学問である」と経済学部の十代の学生に向かって講義したマルクス主義経済学者たちの声を今でも覚えている。このような無責任な独断を若者に語った教授たちや学生運動家たち、あるいは本作が肯定的に描いているような超理想主義等の一応筋だった議論に対抗して、「糸川」的現実主義を肯定する論理を見つけることは容易なことではなかった。実際に「野毛」の選択に近い社会革新の道を選び、音信が絶えてしまった友人たちもいる。私が大学教授に転職した理由のひとつは、物事には多様な側面があり、世の中の扇動家たちのデマゴークやプロパガンダに軽々に左右されてはならないことを教えたいということにある。まあ、最近は、商魂たくましいマーケティング戦略マインド・コントロールされているのではないかとか、マスコミは情報操作や制約を受けており本当の姿は知らされていないのではないかといったダサイ問題を深刻に考えるタイプの若者は少なくなった。多くの若者は「携帯を持ったサル」になっていることすら気付かずに流されているように見える。本作は敗戦直後の映画だけに、懐かしいかたちで人生のあるべき姿を正面から問いかけている。これは、忘却のかなたに追いやられてしまっているように思われるが、今の問題でもある。「自由の裏には重い犠牲と責任がある」は、本作のテーマである。
黒澤監督が女性主演の映画を作ったことは少ないが、黒澤映画では女性も近代的で豪傑であることも面白かった。原節子には小津映画のイメージが強いが、本作では自分の意見を強く持ち、それを強靭に貫く強い女性を演じ、その強弱、明暗の演じ別けと熱演は誠に素晴らしい。このような近代的で強い女性像が映画化された後の時代に、成瀬映画のように古い形の日本女性像を肯定する映画が作られルことになったことは、日本女性史を考える上で興味深いものがある。
 DVDの普及や衛星テレビ等々のメデイア革命で、本作のような古典的映画を観ることが大変容易になり、映画鑑賞が読書と同じように容易に古典を楽しめる時代になった。ということは、新作映画で成功することが従来以上に難しくなったことを意味している。黒澤作品を見る前にクダラナイ新作を見る理由がないからである。