専門職大学院

 専門職大学院と言う言葉はやっとわが国でも定着したかに思われるが、専門職大学院で十分にその機能を発揮出来ている成功例は未だ極めて少ない。
 1971年に社費留学生としてアメリカのビジネス・スクールに留学させてもらった時の驚きは未だ鮮明に覚えている。ビジネスに関して、あれだけ徹底的に研究し教育している機関は、今でも日本には見当たらない。ビジネスに限らず、政治、行政、外交、法律、映画等々ほとんどの分野で2年から3年の修士課程として専門職大学院が存在している。専門職大学院の狙いは、理論的体系的理解を持った実務家の養成であるから、学者を目指すアカデミック修士とは別の体系であり、工学博士を持つエンジニアーで経営実務を勉強する者、学部では建築の勉強をしたが、MBAと合わせてより高い可能性を目指す者、退役軍人奨学金で勉強しキャリア・アップを考える者等々、学生のバック・グランドは極めて多様である。
 そして、一流の専門職大学院では、学生の3割強が外国人である。つまり、このレベルの実務家の多くがアメリカで教育を受け、それがグローバル・スタンダードの教育と看做され、例え国際語としての英語が理解出来ても、この共通的基盤がないと話が理解できないことになる。私の専門分野である金融や会計の分野では、ここ30年近く、将にこの問題が日本の金融や会計問題を混乱状態にしている。他の文科系と呼ばれる分野も大同小異であり、多くのリーダーと呼ばれる老人達は、孤立した島国の尺度でしか理解出来ず、世界で起こっていることが理解も把握も出来ない。これがここ20年の日本の混迷の基礎にある問題である。
 これに気が付いた人々が専門職大学院という教育制度を取り入れる努力をし、急速にその数は増加した。しかし、日本の社会はその設立意義を受け入れる準備が出来ていない。法律や会計のように、専門職の人数が他国との比較で大幅に不足していると言われる分野ですら、専門職大学院卒業生の余剰感が生まれている。これは、日本の文科系のレベルが国際レベルに量質ともに劣後しているにも拘らず、1億人を対象とした鎖国政策で地位と収入を保全しようとする人々に大きく影響されていることを意味している。一例を挙げれば、金融技術革命により金融、保険、証券の実務には統計や確率の考えが多量に利用されている。しかし、10人の役員の中にこの分野を理解できる人が一人しか居なければ、グローバル・スタンダードになった統計や確率の発想を踏まえて経営することは出来ない。このような経営陣では、専門職の持つ価値を理解することは出来ない。金融だけでなく、政治、行政、ジャーナリズム、映画等々、わが国の相当の分野がこのような状態にあり、世界から取り残されている。取り残されているが故に、多数の人々には専門職大学院の意義が理解できない。これが大半の専門職大学院が、卒業生の進路等々に苦しんでいる問題の基礎にある本当の問題である。