大学教育をどう考えるのか

  
前回に引き続き、大学教育を考えてみたい。
我国の重要な中期的課題の一つが教育問題であり、大学及び大学院教育であると考え始めてから久しい。例えば、10年ほど前に出版した本の中にも「アメリカの金融教育」の章を設け、ビジネス教育における日米間の圧倒的格差や教育のリストラクチャーの必要性を指摘している。
私事を持ち出すべきではないかもしれないが、何故私が人一倍真剣に大学教育を検討することになったかをご理解いただくには、私がアングロ・サクソンと結婚し、子供の教育は人生の重要な課題であったこと、結局、長男は英国の高校・大学と日本の大学院教育、次男は日本の高校と米国の大学・大学院教育を全うして、立派に成人した実体験を持つことを知っていただく必要があると考えるからである。また、この教育に対する問題意識が、私が大学に職を求めた背景となっている。

大学教育の英国、米国、日本の比較
長男は小学六年生で米国から帰国し地元の中学に進学した。卒業時に長男から「日本の学校形式主義と詰込教育ではなく、英国の高校に進学したい」との申入れを受けた。愚妻の岳父はイギリス人であることから、イギリス人の従兄弟もおり、子供なりに英国の高校の知識を持った上での申入れで、Marlboroughという全寮制高校に進学させた。相当改善されつつあるが英国の教育には依然社会階層の影が強く残っており、ご存知のように、英国の大学進学率は先進国の中では低く、一流大学卒のエリートとしての地位は日米より高い。この弱点を取り繕いながら改善を重ねているのが、英国大学教育のひとつの側面である。英国の大学入試は、選択した専門分野三科目が対象で、レベルは日本の学部教養課程修了程度、つまり英国教育では高校で既に将来の専門分野を決めることが要求され、この延長に通常三年間の大学教育が位置付けられる。長男はLSEに進学し、日本の制度より一才若くして学士を修了した。
英国のエリート向け大学教育の特徴を単純化を恐れず纏めると、子供の頃から親元を離れた全寮制で独立した人格としてエリート教育を受けさせ、日本や米国に比べると若くして専門分野を特化させてしまう点にある。この制度は、専門分野のレベルは別として、良くも悪くも早くから個人主義のエリートとしての自覚を持った少数の人材を作り上げることになるが、現在の複雑に高度化した社会的ニーズを満たすには、質量ともに十分とは思われない。しかし、同時に、イギリスやフランスのエリートが、マスプロ教育の秀才であるアメリカや日本のエリートより広い視野と判断力、説得力を持ち得る基盤となっている。

次男は国際基督教大学への入学が決まっていたが、米国で大学・大学院教育を受けた愚妻との大学教育論争になった。小職の主張は「ICUに限らず、日本の学部で真剣に勉強する学生は二割程度である。従って、ICUでしっかり勉強して良い成績を残し、米国の優れた大学院に進学する方が楽であるし、日本にも足場を残すことができる」とするものであった。これに対し愚妻の主張は「日本の大学教育の質は良くないし、学生の姿勢も問題である。大事な時期に時間の無駄をさせるべきではない」とするものであった。次男は迷ったあげく、Pomona Collegeに進学した。Harvard等日本で知られる米国有名大学は大学院に重点を置く大学であり、米国の学部教育にはこれら有名大学に加えて、Williams College、Pomona College等の大学院を持たないLiberal Art Collegeと呼ばれる一流校がある。戦後の我国教育制度は米国の影響を強く受けたわけで、学部教養課程の雛型はこのLiberal Art Collegeに求められる。大学院教育の厚みの凄さが米国教育の特色であるが、Liberal Art教育、つまり専門に特化し過ぎずに広い視野を持たせる学部教育が存在することも米国大学教育の特色と考えられる。その模倣である我国の学部教養課程は本来の機能を果たしているようには思われない。米国の教育は高校までの教育がお粗末であり、これが深刻な問題になっているが、大学及び大学院の教育は、体系的に整理されたカリキュラムに基づく大変優れた制度で、質量ともに世界で最も優れていると考える。この結果、大学院修了時点では、世界のトップクラスの人材を輩出することが可能になっている。次男はColumbiaの大学院で映画制作という日本の教育制度では体系的に教えられてない分野の教育を修了した。

これら二国に比した我国の大学教育の現状は、制度的には米国を模倣しているが、整備されたカリキュラムや教育計画と強大な大学院制度を欠いてしまっている。自分自身の経験で言えば、講壇マルキストに代表される教授たちが、自分たちの独断と偏見を学部で教えたが故に、世界の経済学部の学生が共通基盤としているものを習い損ねてしまったことを残念に思っている。世界に通用する人材の基本として大学院教育が重要であることを若いうちに教えてくれる人がいなかったことを残念に思っている。このような文科系分野の学部・大学院の教育の現状では、世界に通用するエリートや指導者を必要なだけ育てることは不可能である。これまた、より文科系に見られる弊害であるが、大学入試の選抜を上手く潜りぬけただけで、真のエリートとしての見識や能力を教育されないまま、特権的な処遇を受けるキャリアパスも残されている。高校までの画一的教育と厳しい受験戦争に問題がないとは言わないが、目的意識と体系化された教育計画が不十分な大学・大学院教育はそれ以上の問題を抱えていると考える。これが専門職大学院という新しい教育制度を日本が取り入れた所以である。

これからの大学教育をどう考えるか
我国大学制度のあるべき改善の方向としては、高度化、多様化し続ける世の中の先端部分を教育する大学院の強化が不可欠である。学部レベルの教育としては、既に自分の専門分野を決めている学生には、中途半端な教養課程の教育を圧縮し、学部で社会に出る予定の者には実学としての基礎教育と卒業時点で不足している分野を認識させ、人生は不断の勉強の場であるという、学び続け、考え続ける姿勢を教育すべきである。専門分野を決め、大学院への進学を考えている学生には、十年近い教育・研究期間を展望し計画的に準備されたカリキュラムで専門家として大成するに必要な基礎教育を施すべきである。将来の専門分野を決めかねている学部学生には、米国のLiberal Artの教育体系を参考に、多様な科目を柔軟に選択させるべきである。このようなLiberal Art教育が存在していることもあり、米国の大学院には、学問を専攻するAcademic Departmentと実学を指向する専門職大学院が並存しており、この結果、学部で化学を専攻した弁護士や看護学を専攻したMBAが生まれることになり、同時に、各分野で世界のトップクラスの人材を輩出することが可能となっている。我国の大学・大学院教育は米国の部分的模倣に止まり、米国の大学院が提供する多様性、柔軟性と厚みを欠いており、大学進学率が高いにも拘わらず、「一流大学卒」といった英国のエリート教育機関的色彩も混在する混乱した状況にあり、このままでは国際的に通用する人材を十分に供給することは容易ではないと考える。