サブプライム・ローン問題(その3)

ここ60年間で、金融理論特に金融技術に関する理論は、高度な発展を遂げたと言われている。確かに、ノーベル経済学賞の受賞者リストを見ても、金融技術に関する功績が大きい受賞者の数は10人を越えている。私は金融技術開発に力を入れていた時期に、これらのノーベル賞受賞学者達との付合いが深くなった。M.ショールツ、W.シャープ、R.マートンさん等は、特に親しくしてもらった。
このレベルの先生方に共通して感じさせられたのは、年齢も近かったこともあり、皆さんフランクに対等に議論してくれたことであった。そして、重要なことは、皆さんが自分らの理論が大変限界を持った理論であるという認識を持っていたことである。金融工学系の理論は、論理展開を緻密にするために、たくさんの前提条件を置いて数学が使える世界を仮定していることが多い。この結果、現実の世界と仮定の世界とは相違していることが沢山あるから、理論がそのまま実践に移されることは極めて少ない。それどころか、実現不可能な前提を置いて導かれた結論は、現実には起こり得ない結論であることから、半可通に理解してしまうと、世の中を誤解しミスリードしてしまうことになる。勉強家と言われた昔の日銀総裁が講演会で「資金調達が負債であろうと株主資本であろうと、企業価値には影響を与えないということは証明されていることでありますが、・・・」と唐突に話されたことを鮮明に覚えている。この発言は、無税の世界といったMM理論が前提とする世界と日本の現状が大きく乖離していることをまったく無視した暴論で、このようにMM理論を曲解して使うのであれば、MM理論を知らない方が弊害は少ないと言ってもよい。
 ノーベル賞クラスの先生方は、理論の限界を十二分に知っており、実践する場合には理論の延長とは異なったアプローチも採用する。オプション理論でノーベル賞を受賞したショールズさんとマートンさんが参画していたことから話題になったLTCMというヘッジ・ファンドの破綻は、オプション理論の間違いではなく、膨大な情報に基づく金融商品の割安・割高判断の前提条件が現実の市場の変化の中で破綻してしまったことにある。問題は、これらの本物の学者たちをとりまく人間が、理論を理解してない、あるいは理解した上で金儲けのために悪用してきたことにある。サブプライム・ローン問題は、既に書いたように、狭義の金融技術の理論の問題ではなく、人間の欲望や経済・社会システムの不備といった原因から生じている。金融技術の研究者も敢えてその実践的限界を強調することは少ない。自分が専門とし、生活の糧を得ている分野の限界を強調することは自殺行為になりかねないし、また、誠実に説明しても、金融の自称専門家を含めて大多数の不勉強な連中には、誠実な説明と不誠実な説明の区別がつかない。ビジネス書のベストセラーには、啓蒙書・入門書とすら呼べないレベルの低い本が名前を連ね、若干骨っぽい金融の本は数千部しか売れない。これは、わが国のビジネス実務のレベルと知的水準の低さを証明する現象であり、肌寒い思いがする。
 サブプライム・ローン問題が日本で大きな問題にならなかった理由は、リスクを理解して避けたわけではなく、サブプライム・ローン証券化ビジネスの存在さえ知らない自称プロが大半であることによる。誤解を恐れずに言えば、みずほ証券などサブプライム・ローン取引で比較的多額の損失を計上した数社だけが、グローバルな金融ビジネスや資産運用業務に挑戦を続けていたということであり、金融資源大国でありながら、大多数の日本の金融のプロたちは、グローバルな金融ビジネスに関心も持たずに取り残されてしまっているのが日本の現状ということなのである。