仮想世界と現実世界(その1)

ビジネスマンであった頃は、毎日、関係者と議論や会議をして現実の問題を解決・進展させようとしていた。大学教授に転ずると、本や資料を読み、考えて纏めるという一人の作業が多くなり、現実に存在する問題以上に理論や歴史的背景を考えるという言わば仮想の世界に浸る時間が増加した。昔は「大学の先生方は現実を知らないから」などと言っていたものである。
最近は、映画の研究に時間を割いているから、仮想世界に浸る時間と深さの程度が一段と上がっている。例えば、休みの日に2本のDVDを借りて、勉強や確認のために2回ずつ観ることがあるが、この場合、一日の三分の一をDVDを観て過ごし、これにインターネットの検索、テレビ、新聞、雑誌を加えると、一日を一人で過ごし、その大半を仮想世界で過ごすことになる。このような生活が出来ることが、大学教授であることの魅力と思ってはいたが、仮想世界に住む時間が長くなるほど、当然に現実世界との関係は薄くなり、これで良いのかと思うことにもなる。
「読む」という行為には能動的な要素があり、2時間以上集中することには努力がいるし、新聞や雑誌記事は現実世界の反映であるものが多い。ところが、映画や映像コンテンツは、より強く仮想世界に引き込む力があり、現実世界との遮断度合いが一層強力なものとなる。現在は通勤や諸々の現実社会との関係が残っており、三日以上にわたり仮想世界に浸りきった経験はないが、年金生活が可能な年齢になってきたから、長期間仮想世界に住み着いてしまう生活も夢ではなくなってきた。最近はやりのアメリカのテレビ・シリーズDVDであれば、離島生活を生き抜く仮想世界を1週間、ホワイト・ハウスから政治を考える仮想世界に1週間、あるいは2時間おきに戦国時代、近未来社会、甘い恋愛生活、犯罪者の苦しみ等々選り取りみどりの人生の局面をオムニバスで1週間続けることも十分に可能である。今のところ、アミメ映画には興味がなく、テレビのドラマも大半を無視しており、テレビ・ゲームも孫が楽しんでいるのをたまに見ているだけである。しかし、映像関係で未来を征するコンテンツは何かを真剣に考えるとすれば、これら多様な映像コンテンツを無視することは出来ないし、テレビ・ゲームは利用者が参加できるだけ、映画より更に強力なコンテンツのように思われる。つまり、映画を含む映像コンテンツを研究し、テレビ・ゲームなど更に高次元の仮想世界を理解しようとすると、現実世界が益々遠いものになってしまう。100%仮想世界で過ごしている人生は本当に生きていると言えるのであろうか?麻薬やアルコール中毒者とどれだけ違うのであろうか?
子供が立派に成長し、間もなく年金生活に入る私が余命をすべて仮想世界で過ごし、極楽浄土を夢想して死んで行くことには大した弊害はない。しかし、「携帯を持ったサル」とも言われる多くの若者達が、音楽やゲーム、インターネットに浸っている姿が多くなってきたのを見ると、これからの社会が大変心配になる。仮想世界と現実世界の関係をどのように整理するのか?情報・メディア革命の激流の中で、自分を見失ってしまう人間が激増してしまいそうな心配がある。情報・メディア革命に関しては多くのことが言われてきたが、まともな人間と思って生きて来た私が、仮想世界と現実世界の狭間で混乱しかねないことを実際に心配しているから、社会全体の問題として本当に心配している。人間全員が仮想世界に生きることは不可能なわけであるし、それ以前に、より現実社会に根ざした人間が、より仮想世界に住みつき麻薬にラリッタような人間を活かさず殺さず利用し、奴隷化する時代が到来するのであろうか?この駄文を読んでくれた方々と私との関係は、仮想世界の関係なのだろうか、それとも現実世界での関係なのだろうか?こんなことを心配している間は未だ自分がまともであると思っているのであるが・・・