運・不運

 「人生は公正、公平ではない」と言われる。法定老人年齢の65歳になり、この意味をしみじみと感じる機会が増えた。年をとるほど、ついている人生とついていない人生の落差が大きくなる。
 定年制度が一つの例で、この制度を残している組織で働いていると、働き続ける意欲や能力があっても強制的に退去を強いられることになる。アメリカを含む先進国の多くでは、定年制度は老人に対する差別であるとして、既に撤廃されている。少子高齢化社会の日本は、とうの昔からそうあるべきである。定年制度を無くすと、老人天国になってしまうという意見の人もいる。しかし、71歳という高齢で総理大臣に選出され、気力も体力もその激務に耐えられず、最高権力者の座を投げ出した事例を見たばかりである。与えられた任務を全うする責任を明確にし、引退する場合にはそれなりの老後生活を保障しておけば、老人天国になる弊害は防げる。神輿として担がれるだけの老人権力者は弊害でしかなく、認めるべきではない。
 職業の選択でも運・不運が大きい。大学教員という職業には、不運な人の方が圧倒的に多いように思われる。先ず、大学教員は博士課程まで勉強することが常識的であるから、高学歴で準備期間と投資期間が普通人より長期である。次のステージである助手や助教、あるいは非常勤講師など若手研究者の待遇は劣悪である。親に財力が無い限り、大学教員になるべきではないと言う人すらいる。確かに、私が勤務するような小さな無名大学であっても、教員を公募すると、驚くほど多数の高学歴研究者が応募してくる。運良く私立の二流大学に採用されても、やる気が無く物覚えの悪い学生に悩まされ、雇ってやっているという意識の強いオウナー一族に奴隷扱いされている知人も少なく無い。近代日本が成功できた要因の一つは教育であり、その基礎とも言うべき大学教員にこれほど不遇をかこっている人が多いことは、大学教員に転職するまで十分には理解してなかった。
 運の良い人の例として、新しい産業や会社とともに成長出来た人々を挙げたい。没落してしまったが、ライブドア堀江社長、買収ファンドの村上社長などなど新興ベンチャーの成功者に多くの例を求めることが出来る。身近にもたくさんの事例を見ることが出来、何故この程度の人間がこのポストに座り、偉そうなことを言っているのかと思わされることも多い。このような人々には、わが身を振り返り、身の丈にあった人間として、社会に感謝の気持ちを持って生きて欲しいものである。間違っても、弱い者いじめをして欲しくない。
 私がこのような生臭い老人になりつつあるのは、天から24時間私を見ていてくれる存在を信じていないからであるように思っている。大半の日本人は消極的無神論者であり、天の存在が生き様すべてを承知されているとは思ってない。したがって、現世の運・不運に憤りを覚え、復讐を原動力に生きているような人も少なくない。神がすべてを見ていてくれるなら、運・不運を気にすることはなくなるはずである。残念ながら、今の私は神の存在を信じられない不幸な人間である。