しあわせの隠れ場所

 観に行くかどうか迷っていた映画である。迷った理由は、観ている間は人間の善意に幸せを感じ、極めて後味も良い映画であろうことは、そのストーリーや配役の妙から予想でき、観ても新しい発見が少ないと思ったからである。少数の人が本作を「偽善は見るに耐えない」と批判していることも知っていたし、本作のような行為を偽善とするかどうかでアメリカに対する評価も分かれることになることも理解できる。結局、本作が、アカデミー主演女優賞を取り日本でも高く評価されていること、気持ちの良い映画を観たい気分になったこと、偽善性を考えるには映画を観た方がよいこと等々に押されて足を運んだ。
 これほど、想像した通りの映画に出くわすことも珍しい。このように、私の経験に裏付けられたことを書くとイヤミにとる人がいることが辛いが、主人公のリー・アンのように、美人や金持ちであることはただラッキーなだけとオクビにも出さず、感触としては男っぽく堂々と自己主張するアメリカ女性を何人か知っているし、彼女らの行動力、特別扱いせず自然な態度で対応するオモンバカリ、気が付いたこと全てを言うことをしない優しさ、これらは素晴らしいアメリカ人の縁者、友人、知人との接触から教えられたアメリカの素晴らしいさである。宗教が後ろにあるからとしか思われない本当に善意のアメリカ人は少なくない。彼らの中には、日米安全保障条約にもとづき、本当に同盟国日本を守るために沖縄に駐留していると考えている人が少なくないはずである。
 気持ちの良い映画を観たい気分になったには、最近、鈍感で馬鹿なのか私の存在意義を認めないからなのか、気持ちがまったく通じ合わない日本人と話をしたことが一因であった。約束を簡単に反故にし、八方美人として会う人毎に色を変え、親のカネと地盤で選挙に勝ち、誠実さのかけらも無く私欲を追求するような政治屋だと判断すると、リー・アンのような善意のアメリカ人は本当に怒るし、必要な行動を取ることに逡巡しない。ここが優しいアメリカ人の恐ろしさでもある。優柔不断な多くの日本人は怖くないし、影響力も持ち得ないし、行動も起こさない。
 舞台となっているメンフィス・テネシーは小さな町ではないが、プレスリーは生まれたものの、文化の臭いの乏しい町で、ホテルを出るとあたりは黒い人しか歩いていないような町だ。この映画でも街中で人が交流しあう場面はなかった。町は白い金持ちの巨大な郊外住宅と、映画に出てくる以上にウラ寂しい黒い人達の小屋で構成される。(撮影は、より近代的大都市アトランタで行われており、実際のメンフィスはもっと田舎臭い町)マサチューセッツではなく、そのような南部メンフィスを舞台に、このような人間の善意を信じさせるような実話が生まれてきたわけで、将に分断されたアメリカの問題を反映している。善意の行動が、常に良いの結果だけではないことが問題であるが、巧まない善意が良い結果を生み出すことを観るのは、一服の清涼剤であり、救いである。存在価値のある佳作である。