「鉄の骨」と「勝者の呪い」

 NHK土曜ドラマ「鉄の骨」を見た。ある程度の知識がある土木工事の談合の話なので、観るつもりがなかったが、第1回目を観た時に、談合即悪というステレオタイプに話を進めてないことを好感して、最後まで観てしまった。
 公開入札方式は表面的・教科書的に考えれば、いかにも公正妥当な方式のように思われるが、実際の商売をしてみると、公開入札方式の難しさや問題点は直ぐに解ってくる。つまり、一番札を取り受注するには赤字覚悟の価格を入札しないと、先ず受注できないということである。「談合を重ねた結果、ゼネコンの利益率は極めて高い」という話はあまり聞いたことが無い。むしろ聞こえてくるのは、「海外の入札受注工事で大赤字」といった声である。
 日本人による体系的な実証研究は知らないが、10年ほど前に行動経済学者として知られるセイラー教授の「市場と感情の経済学」に収められた「勝者の呪い」という論文を読んだが、そこでは「公開入札方式で受注した工事の大半は赤字工事になっており、実際の経済行動として入札方式は合理的ではない。・・・実際には、受注可能な業者が事前に調整し、適正利益を確保できる受注価格にしなければ、赤字工事か手抜き工事かを選択することになり、誰のメリットにもならない」と日本の談合方式的解決策を述べていたことが強く印象に残っている。

 以上のことも一例であるが、日本の社会経済的な知的レベルが世界に通用しないのは、入札方式の実態を検証し新しい事実を示すといった新しい知的生産に従事することに努力せず、権威者や他人の言ったことを引用して議論を終えてしまうからだと思っている。実証を重ねて新しい分析を提示すれば、人は耳を傾けるが、つまらない外人さんの意見や独断的な意見を結論とするような議論には耳を傾けてもらえない。
 仮に、「入札方式よりも談合方式の方が合理的である」との結論が認められれば、談合に加担したが故に罪を問われた人々は無罪放免になるはずである。国際私法問題は「法の対立問題」と言われるように、国が違えば合法・違法の定義は千差万別である。民間が収めた税金で食っているくせに、判事や検事は正義は我にありと尊大であるが、経済活動がボーダーレスとなってきた以上、益々多くの面で国内の正義が即国際的正義ではなくなってきたわけで、国内法で全てを律する時代は終わりつつあるはずで、国内法の見直しも必要になってきている。

 「鉄の骨」はそれなりに面白く書けた話ではあるが、日本人作家が書いた限界も感じないわけにはいかない。