同窓会と村上龍「イン・ザ・ミソスープ」

 昨日19日は、高校の卒業50周年同窓会であった。最近は5年毎に同窓会をやっているから、日常的に遭っている顔も少なくなく、逆に参加しない連中には卒業以来一度も顔を見ない連中が多く、久しぶりの非常に懐かしい顔は極めて少なかった。定員400人の県立男子校で、現在でも公立高校の星と呼ばれているが、私には不完全燃焼の3年間であった。入学時の成績はほとんどトップであったが、「文武両道」といった掛け声もあり、弓道部に入り、結局、文武とも中途半端な不完全燃焼に終わった。定員400人の40数名を占め、越境入学で名をはせた公立中学のトップであったから、東京から1時間の県立高校では「都会派」であり、田舎からはるばる通学して来ていたガリ勉型の同級生に、「都会派の粋」を見せてやろうと、勉強時間を短くしたのが間違いであった。結局、田舎出身のガリ勉型が首席になり、何人かが私より上席で卒業することになった。
 この高校時代の経験は、その後の生き方に大きな影響を及ぼした。「田舎出身のガリ勉型」のダサい人間と思われようとも、人の目を気にせずに全力で精進を続けようと決心して今日まで来ている。「都会派秀才」が圧倒的多数を占める大銀行で働き続け、結局、銀行でのキャリアーは「都会派秀才」達に対峙する少数派で終わってしまったが、圧倒的多数派の「都会派秀才」達よりはるかに広く深く金融産業を理解していると思っている。人生の勝負は未だ終わっていない。そう思っているが故に、気持ちの良い付き合いのできる高校時代の友人達とも一定の距離を保ったままの状態を続けている。

 そんな思いの同窓会の翌日である今日は特段の予定が無かった。新聞や雑務を終えると、積読になっていた村上龍の「イン・ザ・ミソスープ」を一気に読み終えた。ある人が手掛ける本作の映画化が挫折しそうだと聞いて買ったもので、村上龍の作品にはあまりなじみが無い。むしろ、「カンブリオ宮殿」というビジネス事例研究といったテレビ番組で毎週、村上さんの解説を聞いており、ほこり臭い作品だろうと思っていただけに、この小説の意外な内容に刺激を受けた。一気に読み終えたのだから、面白かったはずであるが、良く理解出来ない話でもある。戦後の米国による占領策で、日本が骨抜きになり、「からだには血や肉ではなくて、ぬいぐるみのようにおがくずとかビニールの切れ端がつまっている」殺されても構わない日本人ばかりになってしまったと言いたいのであろうか?ミソスープとはぬるま湯のことなのであろうか?テレビ番組で常識的なコメントを話すことが多い村上氏が非日常的な小説を書く作家であることに改めて気付かされた。歌舞伎町とか冷酷な殺人事件、異常性格者などが具体的な映像イメージを与える小説で、その裏側に隠されたものが本当の主題であるという映画化の難しそうな小説であると思われた。

 そういえば、早熟な文学少年であったK君は高校時代に自らの命を絶ってしまったし、私の前の席に座っていた哲学少年のE君は早大生万引事件以来、風の便りも聞こえてこない。50年はアッと言う間の時間であった。