オタク文化と経済問題

岡田氏のオタク論
 岡田斗司夫「オタクはすでに死んでいる」(新潮新書、2008年)を読んだ。コンテンツ産業、なかんずく漫画・アニメ関連に対しての経済的期待感が強く、経済産業省なども数々のプロモーションを行ってきた。漫画・アニメ関連の根底には「オタク文化」があるように思われ、その何たるかの基礎くらいは理解する必要があると考え、その分野に詳しい知人に先ず読むように薦められた本が、岡田氏の「オタク学入門」(1996年)であった。「人間関係がうまく形成できず、家に引きこもりがちで、子供文化から大人への脱皮ができない若者」という偏見でオタクを考えていた私には、オタクの先達としての岡田氏が「オトクとは、子供っぽい趣味を選び、それに関して、精神力と知性でもって世間の目に対抗していく存在」と定義し、オタクを積極的に選択した行動と評価する姿勢は新鮮であり、説得力を持っていた。なるほど、「オタク」をこのように新しい感覚で繊細な分析をする新しい知的文化と捉えることができるのであれば、オタク先進国の日本から新しい歴史を創ることが可能かもしれないと思ったものである。

 しかるに、そのオタクの象徴的人物が「オタクはすでに死んでいる」と宣言してしまったわけである。「オタク学入門」に比べると、この新書は悲しいくらい情けない本である。要は、第三世代のオタクは岡田氏の定義のオタクではなく、「強烈な自意識、自負心を持った強いオタクではなくなって、自分の趣味を理解してくれないのは世間が悪い、と訴える弱者のたまり場になりつつある」と結論している。60台半ばからオタクを目指そうかとも思っていた私には大変なショックである。しかしながら、考えてみると、元来オタク多数派は岡田氏が新たに認識された弱者達であり、積極的にオタクを評価した昔の岡田氏の定義は少数の貴族的オタクを前提にしていただけであるように思われてきた。

常識的なオタク論
 「下部構造が上部構造を規定する」というのは、現在ひたすら無視されているマルクス的世界観である。戦後の日本経済を支えてくれた輸出製造業に関係した20%程度の日本人の努力は、世界に通用しない政治、金融、国内産業等々の80%の人々まで豊かにしてくれた。時間と金が十分にあり、平和で生活に心配がない下部経済構造に支えられた近代日本社会という上部構造には、当然に子供、若者も含まれている。この連中が無目的な生活あるいは既成の価値観への反発や抵抗の中で、暇に任せて、漫画・アニメを中心とする子供文化を異様に拡大してしまったものがオタク文化であると考えるのが常識的ではないだろうか。岡田氏ご自身が状況認識を変えられてしまった以上、私には常識的なオタク論が説得力を持ち直してきたように思われる。しかし、オタク文化の可能性を下方に再修正しても、それが世界的に見てユニークであることから、それなりの存在感を世界に示すことはできるはずである。

オタク文化の輸出製造業への影響
 オタクの基盤となっている「時間と金が十分にあり、平和で生活に心配がない下部経済構造に支えられた近代日本社会という上部構造」の存在は、下部構造の基盤である輸出製造業を弱体化させ始めているように思われる。これは単にハングリーな戦闘精神が失われつつあることに留まらない。日本社会が世界でもっとも豊かな大衆消費社会であるという自覚なしに商品企画をしてしまい、高機能・高価格過ぎて海外のどの国も大量消費することができないような携帯電話、自動車ナビゲーション等々を生産してしまう結果になっているように思われる。つまり、世界の大多数の人々は現在の日本人ほど金と時間を持ってはいないわけである。一昔前は、国内ニーズに合わせえた商品が自然に世界に輸出できたが、オタク文化を生み出すようなもっとも豊かな大衆消費社会のニーズに合わせた商品を、多量に購入できる国はドンドン減少していると考えるべきである。

 ついでに映画産業に触れると、多数の低予算映画が劇場公開の予定もなく制作され、国内市場ですら通用しない独り善がりの作品が多い日本映画の現象も同根の問題であると思われる。オタク文化を生み出した現在の日本が、オタク文化を基盤に世界に飛躍することが出来ているのは、ゲーム産業だけではないだろうか?
 このままでは、オタク文化関連が日本の近未来を支える輸出産業に成長するとは思われない。