西の魔女が死んだ

kashiwaoak2008-06-30

 私の家内はイギリス人で、子供3人、孫5人がいる。この映画の予告編を観たときに、これは観なければいけない映画だという義務感におそわれ、直ぐに梨木香歩の原作を読んだ。疲れていたこともあったが、書出しの部分でやたらと無駄に言葉が使われているとの印象を受けてしまい、またまた怖さを知らない日本のネエちゃんが書いた日常生活を材料にしたユルイ日本風の小説と即断し、よくこんな退屈な話がベストセラーになり、映画化されるものだと思っていた。
 しかし、この映画を観、映画を映画館で観ることの威力を改めて感じさせられている。ここで言う映画の威力とは、大スクリーンに2時間集中して対峙させることにより、良く出来た映画は、話の濃淡や深さを強烈に伝えうる威力を持っている特異なメディアだということである。
 帰宅後、直ちに原作を読み直したが、これまた驚いたことに意外なほど原作に忠実に作られた映画であることに気付かされた。最初にボーっと読んだ時にも、「ナイ、ナイ、スウィーティ」とか「アイ・ノウ」とか学校英語ではあまりお目にかからない表現だが、我が家では耳にタコが出来るほど聞かされた表現をうまく使っているので、原著者は子供の居る家に長期間ホームステイでもしていたのだろう程度に思っていた。
 しかし、映画を観ているうちに、(1)登校拒否という子供の大問題が起きたにも拘らず、両親もおばあちゃんも「まい」に問いただすことはせず、「まい」の登校拒否という判断を尊重すること、(2)親に反抗的とも言えるママが、「まい」を「扱いにくい子」と呼んだり、魔女の修行は「独りで決めること」であったりするのは、親子関係にも個人を認め合うアングロサクソン個人主義が伏流として存在すること、(3)「おばあちゃんはいつも自分がそのときやるべきことが分かっている。いつも自信に満ちているのよ。・・・それに比べて「まい」はいつも不安で自分のやっていることに自信がない。」等々、原著者が、厳しい教育を受けたイギリス上流階級の発想や生態を相当正確に把握し、多くの日本人が当然と思い込んでいる自己が確立してないが故の自信の無さや集団主義的なものとを、それに対比させていることに気付かされてきた。
 「西の魔女」と生活し、対立しつつ多くを学んできたわが身には、身につまされることが多いが、「一匹狼で突っ張る強さを養うか、群れで生きる楽しさを選ぶか・・・」「その時々で決めたらどうですか。自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。・・・シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」といった箇所には、原著者が日本人であり、アングロサクソン個人主義万歳ではないことを主張し、それと折り合いをつけようとする苦悩と努力を感じる。原作者はガルシア・マルケスを愛読書にしているということだから、本作はイギリスでの経験とマルケスの世界から生み出されたものなのだろう。
 何れにせよ、私にとってはまた素晴らしい話と映画との出会いとなった。