N.N.タレブ「まぐれ」

著者N.N.Taleb氏の名前は “Dynamic Hedging :Managing Vanilla and Exotic Options”(1997)を購入した時期から印象に残っている。知られたトレーダーではなかったし、有名な投資銀行で働いていたわけでもなかったが、エキゾチック・オプションのトレーディングに関する資料が限られていたので、迷わず購入した。数学も難解で理解出来ない点が多い本であったが、所詮「知る者は言わず、言う者は知らず」の世界だから、それ以上追求することはしなかった。タレブ氏の”The Black Swan”はアメリカで話題になった時期に購入したが、この本は持って回った英語表現が難解で、退屈でもあったので、途中で放棄してしまった。「ブラック・スワン」(2007年)に先立って話題になった「まぐれ」(2004年)は邦訳を購入し、長らくツンドクになっていた。「ブラック・スワン」が邦訳され、それなりの評判になっているので、「まぐれ」を読むことにした。マンネリ映画「男はつらいよ」寅さんシリーズがその好例であるが、シリーズの第一作が傑作であることが多く、「まぐれ」が好著であることを期待して読み始めた。
 「まぐれ」”Fooled by Randomness”は素晴らしい本である。このような本を書いてみたいと思ってきたが、大事な時期にいい加減な文系の学生をしてしまった浅学非才の私(タレブ氏が繰り返し馬鹿にするMBAでもある)には、とてもこれだけの厚みを持った本を上梓することはできない。しかし、この本の内容は、優秀な理系の部下との議論で理解した数理分析の限界、あるいは実務を経験すれば、自ずと見えてくる金融理論と現実との大きな乖離から理解してきたこととほぼ一致しており、よくぞ数理分析人の内側から、ベストセラーになるような文系にも理解出来る言葉で、トレーディング、リスク分析や金融工学の世界では理解出来ていないことの方が圧倒的に多いことを整理してくれたと思っている。「金融工学者たちは、将来を予測する道具として過去のデータを使い、リスクを計測する。分布が定常的でない可能性があるというだけで、彼らのやり方は完全に間違っていて、そのうちとても高い代償を払うことになるとだけ言っておこう。」といった部分は、現在の金融危機を予見していたとも言えよう。しかし、タレブ氏がバカにするほど、マートン教授やショールズ教授、あるいは誠実な実務家はバカではない。データ・ベースを整理しなければ、実証的な説得力を持たないことは直ちに理解出来るわけで、少なくも日本では、そのために将来の利用を前提に倒産・信用リスクのデータ・ベースを国の予算で蓄積を始めて数年になっている。マートン教授もショールズ教授もK.ポッパー程度は読んでおり、今の市場が効率的であるなどとは言っていない。「白鳥の湖」を見れば、黒い白鳥の可能性は幼い女の子でも理解出来てしまう。
 よくぞ書いてくれたというべき素晴らしい本であり、黙して語らぬ曲学阿世の徒や偶然に成功したのに大きな顔をしている連中に、多くの批判の目を向けさせた本書の貢献は、「ライヤーズ・ポーカー」以上かもしれない。しかし、読むのに疲れるし、読み終わった後で、もっと簡潔に書けたではないかと感じながら、このブログを書いているから、グチを言ってみたくなってしまう。
 2時間で読めてしまうロクデモないベストセラーが跋扈するわが国と、この本ように、良い意味でしつっこい知的挑戦を試みた本がベストセラーになるアメリカないし世界のレベルとの格差は大変に気になるところである。この格差を埋め切れなければ、わが国が知的産業で立国することは出来ないだろう。
 本書は、破格の良書で、一人でも多くの人が我慢して読みきって欲しい。そうすれば、一握りの悪人が大衆を無視して世界や国を振り回すようなことになるのを防げるように思われる。