ドラッカーの勘違い

 昨日に続きドラッカーを語りたい。彼の思索を考える場合、彼がヨーロッパ出身であることは非常に重要だと思う。日本経済新聞社の連載企画「私の履歴書」をまとめなおした「知の巨人ドラッカー自伝」にあるように、ドラッカーはウィーンに生れ、フロイトなど多くの著名人に面談し、ジャーナリストとしてヒトラーの取材もする。ナチスの嵐が吹き荒れる中、イギリスを経て米国に渡る。
 ドラッカーの書物は、専門書というよりジャーナリストのもので、先行研究の整理引用や文献整理も無いので、現在の大学では学術専門書としては認められないと思う。ドラッカーの「マネジメント」は、既存の学問から生まれたのではなく、ジャーナリストのような幅広い知識とさまざまな職業体験、そして天性の観察眼から生み出されたものである。自らを「社会生態学者」と呼んだらしいが、きちんと細分化された学問体系には収まりきれない学際的アプローチが身上であり、これはヨーロッパの教育では可能であっても細分化された専門分野に拘るアメリカの大学教育からは生まれてこない。レベルが高いにも拘らず、ともすれば専門馬鹿を量産してしまうのはアメリカの大学教育の弱点であり、ヨーロッパの知性に押されてしまう原因であるように思う。勝手気ままに勉強できる日本の文科系大学教育を有効に活用して広い視野を持つ努力をすることは、内容のない日本の文科系大学教育の意図しないメリットなのかもしれない。
 しかし、ヨーロッパ型知性の弱点は、専門的問題の理解が不足したり、勘違いを犯すことである。「ネクスト・ソサエティ」という著書の中の「金融サービス業の危機とチャンス」で、ドラッカーが珍しく私の専門分野の金融に触れている。曰く「金融サービス業は実に30年にわたって、何一つ重要なイノベーションを行わなかった。・・・この30年間、金融イノベーションと呼ばれるのは、科学的と称するまがいもののデリバティブだけである」そして数ページ後で曰く「これから可能性のある金融サービスとしては、為替変動による致命的な損失を回避するための商品、すなわち通貨変動のリスクを日常の経費に転化する商品がある。保険料は2%から5%というところになろう。」としている。金融技術を勉強した者であれば、後の文章は「通貨デリバティブ」そのものの定義であることに気付く。つまり、ドラッカーデリバティブを理解してないし、勘違いしているわけである。情報処理技術の進化が金融トレーディングや証券化商品、デリバティブ取引を可能にし、そしてドラッカーほどの人物ですら近代金融技術の本質を理解できてないことこそが、金融技術の悪用や暴走を招いてしまったわけである。
 このドラッカーの勘違いの一例で、「一事が万事」と彼のクレディビリティを否定しさってしまうものではないが、「知の巨人ドラッカー」は決して無謬ではないし、他にもたくさんの勘違いをしているはずで、けっして盲従すべき存在ではない。ヨーロッパに生まれて、イノベーティブな美しい時代のアメリカに移住したラッキーなジャーナリストに過ぎないようにも思われる。