「マイ・バック・ページ」

 東日本大震災の本当のドラマを見聞きしていると、映画に行って人工的で矮小なドラマを観る意欲が失せて来てしまう状況が続いているが、幾つかの理由が重なり、遅ればせながら「マイ・バック・ページ ある60年代の物語」を観に行った。

 本作を一言で言えば、「無かった方が良かった歴史の平凡な映画化」である。私は原作者の川本三郎さんとほぼ同年代であるから、キャンパスには縦看板が立ち並び、左翼でなければ人にあらずといった雰囲気の中で、出ても出なくてもよい様な授業よりは左翼思想の方が説得力を持っていた時代に大学生であった。昭和42年(1967年)に東大経済学部を卒業したから、安田講堂事件の前に卒業していたが、当時の経済学部授業の半分は講壇マルキスト系であったように思う。学問の自由という御旗の影で、勝手気ままに自説を教えるという無責任な教育で、「経済学は資本主義とともに亡びる学問である」とか「社会主義国家は共産主義の理想の一歩手前の段階である」といった、20歳になるかならないような学部学生に聞かせるべきではない独断と偏見を平然と講義していた。シベリア抑留の歴史などに真摯に向き合えば、スターリン毛沢東の独裁体制ファシズム社会主義国家の実態であったことが解ったはずで、これら講壇マルキスト達の無責任な怠慢を許すことができない。この映画で描かれるように、人生を棒に振ってしまった友人も少なくない。Hラスキなどのフェビアン協会、小泉信吉、猪木正道、関嘉彦などの社会民主主義者の著作に、日和見学生を正当化する理屈を求め続けた。今、60才台後半になり、至福の人生ではないにしても、あの時期に日和見続けたことで、人生を棒に振るような酷い人生にならなくて誠に幸いであったと思っている。

 自虐的な左翼論者の意見に決定的に決別することが出来たのは、71年に学生運動で有名なUCバークレーに留学した時であった。インドやインドネシアなど近代化出来ていなかった国からの留学生を中心に、日本の近代化の歴史の素晴らしさを絶賛する声を聞かされた。島国日本を離れてみて、初めて見えるようになるものがある。「何故アメリカの若者の血と税金で、同盟国日本を防衛する必要があるのだ。日米安保条約アメリカの方から解除を要求すべきだ」というアメリカ人の声も聞かされた。
 このようなことが、60年代の学生運動は無かった方が良かった無駄な歴史であり、それが現在の日本の閉塞感の一因にもなっていると考える理由である。この映画そのものも眠気を誘うような平凡な作りで、総じて、「無かった方が良かった歴史の平凡な映画化」と考える所以である。