10月相場をどうするかⅡ

 10月の金融・株式市場は大荒れになることが多かったし、今年は不安材料も多くあったことから、結局、TOPIXショートのロング・ショート・ポジションを維持した。(9月5日ブルグ参照)ロング(買い持ち)で銀行と商社株の比率が高かったことから、損失が若干膨らんだが、ユーロ金融市場の対策がまがりなりにも打ち出されたことによるリバウンスで、ほぼ10月の出発点に戻った。
 理論的に説明し切れない市場のクセのようなものを「アノマリー」と呼ぶ。10月に株を買うと儲かる確率が高く、4月はその逆であることもそのようなアノマリーの一つである。10月28日に買うのがベストとまで言う人もいる。ヘッジ・ファンドの決算手続きの時期、12月末の税金対策などから売りが出やすくなるのが原因ではないかと言われている。確かに、私も含み損を実現損に振替える12月末税金対策の洗い替え売買をやった。
 問題は、10月アノマリーを信じて積極的にロングにするかどうかである。個人投資家はそんなことを考えずに、信ずる株を長期保有すべきであるとする賢人も少なくないが、1989年12月末の日経平均38,916円をここ20年以上大幅に下回っていることを考えるとそうも言っていられない。投資家の利益を考えた長期投資コンセプトを評価され、カリスマ化した独立系投資信託も設立以来の運用成績は1%に過ぎない。銀行株を感情的に嫌ってきた分、インデックスを上回っているだけの話で、偉そうな顔をするのは片腹痛い。銀行や商社株式の配当利回りが5%、PERが10倍以下というのはやはり割安であろうし、円高にピークアウトの気配が出れば、輸出関連株は急な反発を見せるように思う。が、しかし、中国のバブル崩壊アメリカ経済の弱体化の暴露など、市場が折り込んでない不気味な不安定要素が存在する。
 迷うところであるが、迷いは投資に付き物である。10月アノマリーを少しだけ信じてみたいが、どうしたものか。

鉢呂前経産相の「放射能つけちゃうぞ」発言は虚報だった!

 10月3日に本ブルグで書いた日本のマスコミ報道の問題に関して、「ダイヤモンド・オンライン」にフリー・ジャーナリストの上杉隆さんが、下記のように「鉢呂前経産相の「放射能つけちゃうぞ」発言は虚報だった!」という題でコラムを書かれている。
 上杉さんと面識があるわけではないし、彼の言うところが全面的に真実である保証もないが、日本のマスコミ報道の酷さのひとつの例示にはなるのではなかろうか。上杉氏の言い分に不満があるのであれば、マスコミからの堂々たる反論を聞きたいし、マスコミにはその義務がある。


http://diamond.jp/articles/-/14408
http://diamond.jp/articles/-/14503

DVD4枚1000円

 東北大震災の後、あまり映画を観る気になれなかったが、「インサイド・ジョッブ」を教材に使うことにしたので、久しぶりに映画DVDをたて続けに観た。新作2本を含め、DVDレンタル4枚で1000円と言われると、4枚借りないわけにはいかない。元々、シニアーは旧作DVD200円という安さであり、老人の時間つぶしには格好のエンターテイメントではあるが、ビジネスとしての採算は気になってしまう。デジタル化された映像は限界コストが安いから、限界部分のサービス提供は益々割安に行われることになる。割引DVDどころか、無料動画配信、テレビのデジタル化によるチャンネル増加で、既に映像配信サービスは大幅供給過剰で、割引DVDレンタルより内容の濃い無料動画配信さえ存在始めている。映像コンテンツ産業を研究するものとしては、大変難しい時期である。

ノルウェイの森
ノルウェイの森」の原作は昔読んだが、ほとんど印象に残っていない。映画化はもっと難しいだと思っていたが、予想通りに退屈なロマン・ポルノのような映画であった。
 村上文学は好きではないので、多くの方が嘆くように、原作との対比でこの映画の出来が悪いというようには考えていない。撮影監督が良いのだろうが、映像は美しく、最近の日本映画の水準を大きく越えていたし、主演の二人は完全なミスキャストだと思うが、丁寧に作られた映画で、映画制作自体はむしろ良かったのではないかと思う。むしろ、「ノルウァイの森」という原作のエッセンスを引き出すと「若者向けの退屈なロマン・ポルノ」であり、それをトラン・アン・ユン監督が意図せずに証明してしまったということではないだろうか。


冷たい熱帯魚
園監督、黒沢あすか出演の本作を観ることを楽しみにしていた。期待通り面白かったが、次のようなことが気になり、「愛のむきだし」を超える出来とは思われない。

韓国映画にはやたらと血なまぐさいシーンと暴力が多いものがあり、本作がその影響を強く受けていること。グロテスクな血なまぐさいシーンは個人的には大嫌いであるし、不快感を感じる観客は多いはず。
ニヒリズムと誤解されるような感情抜きの暴力シーンは、北野映画が得意とするところで、その模造品のような場面が少なくない。
③映像が素人のように稚拙である。

 最近の崩れ行く日本の家族愛を危惧し、桁外れに強い反語表現で旨く描いているように思われ、その点は評価できるが、上記のようなことを意識させられてしまい、手放しの傑作とは思われなかった。


最後の忠臣蔵
ほとんどの映像が素晴らしく美しい。最近の若い映画制作者の作品には、素人のような映像のものがあるので、プロとしての訓練を経た本作の画面は貴重である。
 しかし、その美しい画面や登場人物(残念ながら、主演女優には美しさを感じない。特に、出だしの盲目ではないかと誤解するような稚拙な演技には混乱させられた。)が語りかけるものがあまりに古い唯我独尊の価値観であっては、とても世界的な共感をえることは出来ないだろう。
 ①忠臣蔵が好きな外人さんがいることを知ってはいるが、「主君の仇討ちに人生をかける」価値観にどれほどの同感が得られるのであろうか。
 ②まして頭目の私生児の養護に人生を賭けるべきであろうか。
 ③女は男のために存在しているのか。自分を育てるのに人生をかけた愛しい人が腹を切って死んでいる時に、自分だけぬくぬくと幸せになれるように思えない。

 明治初期の記録では、士族は日本人の5%程度で、我々の大半は武士道とは無縁の百姓の子孫である。したがって、武士道は日本人の心のよりどころではない。士族の被害者であった連中の子孫が武士道や不労階級の戯れごとに同感するのは世迷いごとも甚だしいはずである。
 このような美しいカラパゴス島の作り話を作っているようでは、とても世界に通用する日本映画の復活は望めないのではないだろうか。


カイジ
人生を始めて考えた小学生が観る悪夢のような話。こんな幼稚で工夫の無い人生論が何故映画化されてしまうのだろう。あまりの酷さにDVDを早送り。

(The Last Message 海猿
本作は海猿シリーズではもっとも面白くないと思う。しかし、海猿シリーズが人命救助につくす原発猿や地震猿などの英雄を生み出してくれているようにも思われ、このシリーズは十分に社会的貢献を果たしてくれているのではないか。東電の幹部や原子力村の学者・技術者は子供のような素直な気持ちで本作を観るべきだろう。

古賀茂明「日本中枢の崩壊」

 時の人である古賀茂明さんが経済産業省を退職されたのを機会に、積読になっていた「日本中枢の崩壊」を拝読した。感想を一言で言えば、予想外のことがほとんど書かれていない陳腐な内容で、国内の政治家と官僚のことにしか触れてない視野の狭い本。この程度の本が何故今話題になるのであろうか。銀行時代に経産省の委員などをやらせていただいていたので、多くのエリート官僚がよく仕事と勉強をされるのを知っているだけに、この程度の内容で官僚制度や政治家をバッサリ切り捨てても、玄人筋には説得力も影響力もあまりないのではないだろうか。欲求不満の八つ当たりを聞かされているようにも思えてくるし、天下りと言われない政界か学界に転職する布石に書いた本のようにも思われてしまう。

 日本の権力闘争は、政治家(+財界)、官僚、マスコミの三つ巴と言われている。年一回総理が代わり続けるポスト小泉時代は、マスコミが権力闘争に勝ち続けている時代のようにも思われる。最近のお坊ちゃま総理達はもともとその器でなかったのだろうとは思うが、マスコミが下らない政治ミス、天下り財政問題、領土問題など本当の原因は知る人には理解出来ているし、簡単に解決できない難しい諸問題を材料に、枝葉末節の揚げ足取りを針小棒大に報道することがなければ、これほどの政治的混乱と無力感を蔓延させることはなかったと思う。つまり、三つ巴の権力闘争をしている三者の中で、国際的比較でもっとも低い評価しか与えられないマスコミが、わが国に対して不当な影響力を行使しているのが現在の状況であると思う。国内のゴシップ記事にうつつを抜かし、国際的な独自情報の収集や報道、良質な調査分析報道が出来ているマスコミは、別の問題があるNHKを除き、皆無である。教育の無いオバちゃんが、近所の悪口を声高に言いふらしているのが、日本のマスコミの現状である。このようなオバちゃんにとって、公務員制度改革という問題を前面に出し、「正義派」として同僚の官僚を滅多切りする古賀氏は、自分の家庭の酷さを勝手に吹聴する近所のお兄ちゃんのようなもので、官僚の印象を悪くし影響力をそぐための有効な道具として利用することが出来る。
 東電の影響力と尊大さには驚かされるが、エンロンというヤクザ企業を取り込んで電力製販分離や電力市場の自由化を促進しようとした経産省改革派が正しかったとも思われない。目くそ鼻くその差に過ぎないかもしれないが、現時点でマシな順に順位をつければ、官僚、政治家、マスコミの順になると思う。日本のマスコミ報道の酷さに気付くべき時である。抹消のくだらない問題を針小棒大、感情的に報道し、事の軽重が判断できない衆愚を操作し、コップのなかで首相や大臣を次々に血祭りに上げる日本のマスコミは国益を大きく損ねていることを自覚し、自己批判すべき時である。

「インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実」

 私が専門にしてきた金融分野を対象にしたアカデミー賞受賞ドキュメンタリーであるから、観るのを楽しみにしていた。映画館は遠隔地だったので、DVD化されたので早速観賞した。
 マイケル・ムアーのドキュメンタリーよりは正統派で洗練された作りで、イルカ漁の「コーブ」よりは客観性と論理性が高いと思う。解りづらいと言われる金融ビジネスを対象とした割には、理解しやすい。これは論点を絞り込み、技術的側面を排除し社会問題としての観点に重点をおいたことによると思う。付録DVDインタビューで、ファーガソン監督が「問題の本質は難しくない。強欲に引きづられるこのビジネスの上位75人を投獄してしまえば、問題の相当部分は解決される。」と語っている。これは半分正解で半分誤りである。NHKも同じテーマで悪くないドキュメンタリーを放映しているが、金融技術の問題を解らせようとして混乱の原因を作ってしまう面があり、また、インタビュー出来た人間の質とインタビューを拒否した人間の名前を晒し者にするという点で本作の方に軍配を上げたい。コメンテイターには知人も出ているが、本質を理解しているとは思われない人物も散見する。
 「問題の本質は難しくない」と見抜くことは非常に重要である。サブプライム・ローンを例にとれば、腐ったり、腐りかけた肉に、どの程度新しい肉を混ぜれば新しい肉として売ることが出来るか。これを統計的な問題として緻密に整理するのが数理バカの金融エンジニアーのやらされていることである。更に、ダンボールをどの程度まで混ぜれも食料肉として通用し、腐る速度を遅らせることが出来るか。AIG格付け機関のようなブランド名に、利益と理論の両面から協力させ、罪を押し付けるか。バレそうになったら、如何に早めにAIG,Fanime等の株や債券を空売りし儲けるか。競争相手のレーマンは倒産させ、AIGは税金で救済し保証金を払わせる。これらの芝居をやる舞台と役者を揃えるために、曲学阿世の学者に小銭を掴ませ、ワシントンに人を送り込みインサイド・ジョッブをやらせる。つまり、部分部分の構成人員は奴隷のように難しいジョブをこなしているので、必ずしも悪行の限りを尽くして金をボッタくっているように感じない。それどころか、グズグズ言わずにJust do it!でなければ、生きていけない世界である。MITのPhDやHarvard MBAの頭脳でも全体を理解出来ないバカが少数の全体を見える連中にこき使われる世界である。それでは、上位75人を投獄してしまえば、まともなビジネスになるであろうか?「否」である。同じようなことを企む狡賢い人間を新しく75人リクルートすることは難しくない。Gサックスだけでも3万人の従業員がいるし、同じビジネスで良いなら私でも仕切ることが出来ると思うので、供給源は少なくない。
 金融に限らず、悪巧みとグズグズ言わずにJust do it!のビジネス・スタイルがアメリカ帝国に、終わりの始まりをもたらしている。問題なのは、アメリカに代わる勢いの中国も悪巧みとJust do it!の格差社会に向かっているように思われることである。この時代変化の中で、何も自分では決められず、無垢の被害者と思いこんでいる平和ボケした怠惰な国が我が日本である。

NHKのど自慢大会

 昨晩NHKが放映した被災地区の「のど自慢大会」参加者のドキュメンタリーには、いたく感動させられた。若い頃は、「NHKのど自慢」は、ダサくて洗練されていない後進国番組の代表のように思えて、相撲中継と並びいつまで放映し続けるつもりなのかと思ったものである。しかし、海外生活を経て年を重ねるに従い、この番組に日本人の無邪気な人の良さを見出すようになり、たまにしか見ることはないが、末永く続いて欲しい番組のように思われてきている。
 参加者一人一人が楽でない人生を引きずってはいるが、無邪気に楽しげに自己表現することに着目して、99年に井筒和幸監督が「のど自慢」という映画を制作しているが、着眼点は良いものの大変間延びしたしまりのない映画だったように記憶している。これに対して、昨晩のNHKドキュメンタリーは、被災地からの参加者が引きずっているそれぞれの重く悲しい人生を切々と静かに切り出し、「のど自慢大会」程度のことですら、癒しになり、救いになる様に胸を打たれた。番組が取り上げた方々ほどの悲しみを乗り越えた経験のない私には、どのような言葉を発すべきなのか解らない。私は、彼らほど悲しみに強く対処出来るようには思われない。今回の大震災被害の広がりの大きさと深さを再確認させられた。(余談ではあるが、地盤の悪い拙宅も外壁にヒビが入り、結構な修理工事を終えたところで、被災者の末席に入れていただけるのかもしれない)

 このようなテレビ番組を見せられてしまうと、金を払ってまで映画館に足を運ぶ気持ちが湧いてこない。若干脱線してしまうが、先日CATVで小栗康平監督の「泥の河」を観ることが出来た。かねて名作と知られているが、貸しビデオが存在せず、「やっと」観る事が出来たというべきであろう。期待が大き過ぎたことや子供が主役であることもあってか、期待以上の名画とまでは言わないが、姉弟と母親を乗せた廓舟が引き舟に引かれて静かにトンネルに消えて行くラスト・シーンはやはり邦画史に残る名場面であると思う。

 「のど自慢大会」のNHKドキュメンタリーや「泥の河」に感動してしまうのは、被災者や世の中の弱者が多くを語らずに同様の弱者の痛みをおもんばかる点にあるように思う。「のど自慢大会」が番組表から消える時は、この島国から弱者が弱者の痛みをおもんばかる美徳が消え去る時なのではないだろうか。

古新聞・古雑誌

 夏休みで読まなかった一ヵ月分ほどの古新聞と古雑誌をやっと読み終えた。ひと通り目を通さないと空白の時間が出来てしまうようで、落ち着かないので、海外出張や新聞を読む時間が無いほど忙しかった時からの習慣である。
 リアル・タイムで情報が提供される時代に、新聞や雑誌の利用率は低下の一途を辿ることは避けられまい。しかしながら、利用者が能動的に検索し選択する情報と、情報に濃淡を付けられ、一定の期間に想起した歴史を一覧にして提供する新聞や雑誌には別の機能が存在するように思う。自分に興味のある事だけを自分に都合の良いウェイスで理解し続ける人間と、一定の価値判断でスクリーニングを受けた情報を天の声として聞き続ける人間との間には相当に相違した世界観が生まれるはずである。
 相当に時間をかけて読んだ古新聞・古雑誌ではあるが、改めて切り取るに値するほどの記事は多くはなかった。大地震被災者の苦悩、上滑りの復興策、そしてそれらの歴史的悲劇を覆い隠してしまう東電原発の惨状、世界景気に漂う暗雲と円高による我が国産業空洞化の懸念、馬鹿と利己主義者しかいないような政界、下らない情報を針小棒大に垂れ流すマスコミ、救いはなでしこジャパンが運んでくれたささやかな清涼感程度しかない。これが日本の現状であり、古新聞と古雑誌はそれを確認させてくれ、そして私をまた日本人の一人に引き戻してくれた。
 1億人以上がほぼ同じ価値観と言語を理解することに日本のユニークさがあると考えるし、それが明治維新以降の日本の成功につながったと思う。情報革命はその同質性を弱くすることは間違いないし、地方分権とか道州制と言った己を自覚できないデマゴーク達が日本の強さを崩壊させつつあるように思われる現在、大震災が日本人の同質性と団結力を引き戻してくれる結果になれば、禍が福をもたらしてくれることになるように思う。日本語を含め3ヶ国語を操る外国育ちの孫3人と日本育ちの日本語しか出来ないややひ弱な孫3人達との楽しかった夏休みを思い出すと、日本人であることの意味や強弱を自ずと悟らないわけにはいかない。